» 夢応の鯉魚「雨月物語-1768~1776年刊 著者:上田秋成 -」

雨月物語

雨月物語

怪談物語をおさめた短編小説集「雨月物語
死してなお残る「信念」「執着」と
いったものが描かれています。

夢応の鯉魚「雨月物語-1768~1776年刊 著者:上田秋成 -」

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むかし、むかし、延長年間のころ、三井寺に興義(こうぎ)という僧がいました。
興義は、絵の名手として名の知られた人物でした。

彼がいつも描いているのは、仏像や山水や花鳥など一般的なものではありません。
寺でのつとめの合間に、琵琶湖に小舟を浮かべて釣りをしている漁師に銭をやり、捕れた魚をもとの水面に放させてあげては、その魚が生き生きと泳ぐのを描いていました。
それが、いつしかそれが絶妙な名手の域に達したのです。

彼は、ときに絵に心をこらして思いつめるあまりにうとうととすると、
夢のなかで水中に入って、大小さまざまな魚たちと遊びます。
目が覚めるとすぐに、夢で見たままを絵に描き、壁に貼り付けて、
それを自ら「夢応の鯉魚」と呼びました。
その絵の絶妙な美に惚れて欲しがる人が後を絶ちませんでしたが、
興義は、鯉魚の絵だけは決して誰にも譲り渡すことはありませんでした。

その興義が、ある年に病気で寝込んでしまい、たった7日の後に息絶えてしまいました。
徒弟や友人たちが興義の枕元に集まって悲しみ嘆きましたが、
その遺骸の胸のあたりがほんのりと暖かいままだったので、
もしや生き返りはしないかと、彼の周りに座って見守り、そして3日が過ぎました。
すると、彼の手足が少しずつ動き出すようになりました。
そして、ようやく長いため息をついたかと思うと、目を覚まして夢から覚めたように起き上がったのです。

興義は尋ねました。
「わしはずいぶんと長い間気を失っていたようだが、何日過ぎたのかね?」
「あなたは3日前に息絶えられました。葬儀の相談もしたのですが、まだ胸の温かみが残っていましたので、こうして柩にも収めず、みなでお守りをしていました。今はこうして息を吹き返されたので、よく葬らなかったものだとみなで喜び合っております」

興義はうなずいて言いました。
「誰でもいい。一人、檀家の平の次官(すけ)の殿の館へ行って、
『興義法師が不思議にも生き返りました。殿はただ今、酒宴を開いて、鮮魚のナマスを作らせているはず。しばらく宴を中断して、寺までお越しあれ。世にも稀なる話をお聞かせしましょう』
と伝えて、その方々の様子を見届けてきなさい。わしの言葉に少しも違いはないはずじゃ」

使いの者は、不審に思いながらその館へ行き、興義の言ったことを伝えました。
そして人々の様子を見たところ、主人の次官をはじめとした人々がまるく居並んで酒宴を開いていました。
その様子が確かに興義の言ったとおりだったので、使いの者は不思議に思いました。
次官の館の人々もこれを聞いて大いに不思議がり、とりあえず箸を置き、みなを引き連れて三井寺へやってきました。

興義は枕から頭をあげて丁寧に挨拶すると、次官のほうでも蘇りの祝詞を述べます。
そして、興義がまず問いかけました。
「殿、ものは試しに、わしの話を聞いてくだされ。あの文四という漁師に魚を注文したことがおありですかな?」
次官は驚いて、
「確かにそうです。どうしてあなたがご存知なのですか?」
興義は答えました。
「その漁師が、三尺あまりの大魚を入れた籠を持って、あなたの館の門に入ったじゃろう。ちょうどその時、殿は御令弟と表座敷で碁をたたかわせておられた。
そこへ漁師が大魚を持ってきたのを喜んで、殿は高杯に盛った桃を与えられ、また盃をくださって、たっぷりと酒を振る舞われた。
そして、料理人がもったいぶってその魚を取り出しナマスにする……いかがかな、拙僧の言うことは少しも違っておらぬでござろうか」
これを聞いて、次官の一行は不思議がり、あるいは変な気分になって、どうしてこう細やかに事実を知っているのかと、そのわけをしきりに尋ねました。
興義は、それに答えて次のような話をしました。

「わしはこの頃、病に苦しみ耐えがたい苦しみを味わっていたあまりに、自分が死んだのも知らずに、暑苦しい気持ちを少しでも冷ましたいものだと、杖を支えに門から出た。
すると、病苦もいくらか忘れたようになり、籠の鳥が放たれて大空に帰ったような、のびのびとした気分になったのじゃ。
そうして歩いていくうちに、いつものように琵琶湖のほとりに出た。
水の色が碧(みどり)に映るのを見てたまらず、ふらふらと水を浴びて遊ぼうという気になり、服を脱ぎ捨てて飛び込んだ。

けれども、水の中では、人は魚のように自由自在に楽しく泳ぐことができぬ。わしは魚が羨ましくなった。
すると、傍にいた一匹の大魚が、
『師僧のお望みは、たやすいことですよ。少しお待ちください』
そう言ったかと思うと、深くはるかな水底に消えていき、やがて衣冠束帯に身を包んだ人物がその魚の背にまたがって、さまざまな魚族の一群を引き連れて浮かび上がってきて、わしに向かって言った。
『海神(わたつみ)の詔をお伝えしよう。あなたはかねてから放生の功徳を多く積んでいる。そしていま、水中に入って魚の楽しみを願っている。
わたしはあなたに一時の間だけ、金色の鯉の服をさずけて、水の楽しみを味わわせてあげましょう。
ただし、釣り糸の餌の香ばしい匂いに目がくらみ、釣り上げられて身を滅ぼすことのないようお気をつけなさい』
こう言ってその人は立ち去り、やがて姿が見えなくなった。

あまりの不思議さに自分の身をかえりみると、いつの間にかわしは鱗の服を着て、金の光を発する一匹の鯉魚と化しておった。
そして、わしはそれを不思議とも思わず、尾を振って、鰭を動かし、ゆうゆうと心の赴くままに水中を散歩したのじゃ。
夢応の鯉魚
長等山の山おろしの吹き降ろす、湖のさざ波に身をのせて、
志賀の入り江のきわを泳ぎ遊べば、裾を濡らして歩く人の足の行き来に驚く。
比良山の高い峰が影を映す、深い水底に潜ってみれば、
身を隠しがたい堅田の漁火が美しく輝き、ふらふらと惹きつけられてしまうのも夢心地。
真っ暗な夜になって、その名も同じ夜中の入り江に影宿す月は、明るく鏡山の峰にかかって鏡のように澄みわたり、
八十の数多い湊の隅々まで照らし出される光景の、口に尽くせぬ面白さよ。
沖に浮かぶ沖津島、竹生島、波にうつろう朱の玉垣の、波間に映える美しさは、ひときわ心をときめかす。
そうしているうちに、古歌に『伊吹のさしも草』とある、その伊吹山の湊から漕ぎ出した朝妻舟の櫓の音に、芦間にまどろむ夢を覚まされ、
矢橋を渡る舟の水棹に遊んでのがれては、瀬田の橋守の足音に追われたのは幾十度であったことか。
日差しが暖かいときは水面に浮かび、風の荒いときは千尋の水底にのびのびと遊んだことじゃった。

じゃが、急に腹が減ってひもじくなると、わしは餌をあさって泳ぎ回った。じゃが餌を少しも得ることができず、やがて飢えに狂ったように食べ物を探し回った。
すると、たちどころに漁師の文四が釣り糸を垂れているのに出会ったのじゃ。その餌はたいへん香ばしい。
だがわしは海神の戒めを忘れずに思った。
わしは仏の御弟子じゃ。しばしものを得られなくとも、なぜ卑しく魚の餌を呑むことがあるじゃろう。
そうしてそこを去ったが、しばらくすると飢えがますますひどくなる。
どうにも耐えがたい。たとえこの餌を呑んだとしても、そうは愚かに捕まえられるものか。もともとあの男は知り合いなのだから、なにを憚ることがあるだろう。
そう思ってついにその餌を飲み込んだ!

文四はすばやく釣り糸を引き上げ、わしを捕まえた。
『これはなにをするのじゃ!』
と叫んだけれども、彼は少しも聞こえぬ顔で、縄でわしのエラを貫き、舟を葦の生えた岸辺に繋ぎ、わしを籠の中に押し入れて、殿の館の門に入って行った。
殿は令弟と表座敷で碁を楽しんでおられた。
文四が持ってきた大魚を見て、めいめいお褒めなされたのじゃが、
そのときわしはみなに向かって、声をはりあげた。
『貴殿方はこの興義をお忘れになったのか。許されい。寺に帰してくだされい』
そう何度も叫んだのに、みなは素知らぬ顔で、逆に手を打って喜んでおられた。料理人は、まずわしの両眼を左手の指でしっかりと掴み、右手には研ぎ澄ませた包丁を取り、まな板の上にのせてまさに切ろうとした。
わしは苦しさのあまり大声をあげて、
『仏弟子を殺すという法があるか!助けてくれい、助けてくれい』
と泣き叫んだのじゃが聞き入れぬ。
そして、とうとう切られたと感じたところで夢が覚めたのじゃ」
興義はそう話しました。

人々は大いに感じ入りました。
「師僧のお話につけて、今思えばそのたびごとに魚の口が動くのを見たが、ちっとも声を出すことはなかった。
それにしてもこんな不思議なことを目の当たりにするとは、まことに珍しいことだ」
次官はそう述べて、従者を館に走らせ、残ったナマスを湖に捨てさせました。

興義はこうして病が癒えてから、ずっと後年に、天寿を全うして死去しました。
その臨終に際して、それまでに描いた鯉魚の絵数枚を湖に散らしたところ、描かれた魚が紙から抜け出して水中を遊泳しだしました。
そういうわけで、興義の絵は現在には伝わっておりません。
その弟子の成光という人は、興義の名人芸を伝授して当時有名でした。

成光が閑院の襖に鶏の絵を描いたところ、生きた鶏がこの絵を見て蹴ったという話が、古い物語の中に載っているのだそうです。

<<浅茅が宿 || 仏法僧>>


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