» 女方もすなる「男色大鑑-1687年発刊 作者:井原西鶴 -」

近代の物語

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女方もすなる「男色大鑑-1687年発刊 作者:井原西鶴 -」

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道頓堀畳屋町の西北角に、新しくできた扇屋がある。
ここは、まだ若き女形・松島半弥が 七左衛門と改名して開いた店だ。
花の盛り、月なら二十日あまりの若衆盛りなのに、どうして元服してしまったのかと
役者の草履取り仲間は嘆いたものだ。

この若衆は まだうら若い頃から「松島や小島の海人の濡れる袖」という、その名にちなんだ古歌のように
色っぽく、情け深く、客のもてなしは上品で、酒も上手にこなし、客への手紙の書き方などは真似のできる若衆はいなかった。
女方もすなる
自宅に迎える馴染みの客には、水仙の早咲きを生け、雪昔という宇治茶を詰めた壺の口を切って もてなしたし、
春には散りゆく桜を描いた絵に自ら筆をとり、古歌の風格漂う和歌を詠んでみせたりした。
五月雨の降るしんみりした夜は、初音という銘の伽羅を焚いて、ホトトギスを待ち望むお客をよろこばせ、
秋は宵から月を眺め、更けては書物に心を移す
というように、一つ一つ良いことを見習って、何をするにも上品であった。

さらに、床入りしてうちとけた客あしらいの巧みさは生来のもので、相手の命をとるほどであった。
たまに会った客も半弥のことを忘れられずに後をつけたし、明け暮れ恋にせめられて借金にはまった者は数え切れないほどだ。

半弥は世間の役者がそろってかぶる紫帽子の趣向を変えて、浅葱ちりめんで仕立てたのだが、それが半弥を更に美しくさせた。
普段着は派手なものを好まず、肌着は白無垢で、上には引っ返しの黒子袖を重ねていたが、これは他の若衆のできることではない。
また、半弥は鷹揚な人柄で、人の欲しがる 小判のようにずっしりしたものには手も触れず、少しも卑しいところがなかった。

ある時、筆者はとある若衆の家へ 盆節季の見舞いに行ったことがある。
その女形は塩鯖の代金を渡すとき、自分で天秤にかけて秤目をつついていたのだが、
その銀が四匁のところを二分五厘軽いだの重いだので魚屋と口論していたのは見苦しかった。
また、誰も見ていないと考えてたのか 勝間木綿のふんどしの前下りが薄汚れていた。それで更に嫌気が差した。
せめて夜なら人目につかなかったことだろう。

こうしてみると、若衆にもひどい違いがあるものだ。
せこせこしたのや、ゆったりした者。大晦日と元日ほどに違う。
この世に住むからには 嫌な年越しもしなくてはならない、と柊兵四郎と話して笑ったことがある。

ある時、道古という客をもてなすために、半弥の好みで大阪の茶臼山に出かけたことがあった。
花見をした春とはうってかわり、秋の寂しさは虫たちの鳴く音に伝わってきた。
南の池の畔に幕を張らせ、酒好きは那古の海に入る夕日のように顔を染め、威勢のいい言葉を交わした。
酒の肴もあらかた片付いて「これではもう呑めないな」と言い出した頃、
近くの村の子どもたち4,5人が、それぞれ竹籠を担いでやってきた。

「いったい何を始めるんだ」
「松茸狩りですよ」

こんな浅い山に松茸があるものか。道古たちが見ていると、
子どもたちはツユクサを分けて紅葉した落ち葉を探した。
やがて笠を傾け、そこかしこの松茸を採ってきた。
さっそく松葉をたいてその場で松茸を焼くと、柚子の香りも芳しく、みんなで舌鼓を打った。

そういえばある年、あるお方が小松半太夫を連れて天野山で松茸狩りをされたことがある。
酒宴の際に取持ちのヒゲの半左衛門が歌った「おたけさんさ」の一節は今も流行り、
歌山舂之丞も歌いだし、いつになく面白い遊山となった。

これもみな進行役の半弥が気を配り、昨晩から人をやってあちこちに松茸を植えておいたのだという。
万事行き届いた支度である。

半弥は諸芸にも嗜みが深く、「いや申し」というちょっとした言葉遣いまでもが好ましい。
昨今まれな女形であるといっても差支えはあるまい。

荒木座に抱えられた4月初旬、半弥の舞台衣装の橘の模様が香り、
見物人は、ホトトギスの初音のように掛け声をかけた。
その初音のように珍しい狂言の最中、平土間の片隅から田舎者のような男が舞台に飛び上がった。

「半弥様。私のようにつまらない者がお慕いするのは畏れ多いことですが、心中立てにこれを」

男は脇差を抜き、左の小指を板敷に押し当てた。
彼は落ち着き払って4,5回脇差を引き、そのまま小指を切り落とすと
落とした小指を紙に包んで、男は半弥に投げ出した。

「私を想ってくださってのご好意、無下にはいたしません。
 いまは狂言の最中ですから、とりあえずは楽屋にお越しください」

半弥が少しも騒がずに言ううちに、男の姿は見えなくなった。

「是非、私の家にお訪ねくださいね」

と言っておき、半弥はその指の血だけ洗い流し、丁寧に包んで懐に入れた。
これはいかにも情け深い仕打ちで、世間の評判も悪くなかった。
芝居では前代未聞の出来事である。

半弥は家に帰ると寝所を取り、袖に香を焚き染めて男が来るのを待った。
鉄眼寺の明けの鐘のなる頃、少しうたた寝をした。
まもなく夜も明け、人顔もどうにか見えるようになった頃、昨日の男が友達と二人連れで訪ねてきた。

半弥はいろいろと話しかけ、ずいぶんうれしがることばかり言ったが、
男は身を震わせて「かたじけない」とひとこと言っただけで、それからはうつむいてしまった。
その様子はひどく哀れに見えたが、男の気持は連れの友達が話してくれた。
半弥は涙をこらえて身をまかせ、手を変え品を変えて戯れ、男の手を取って誘ったが、男は用意された寝間にも行かない。
酒をくみかわしてから、半弥が留めても男は帰ろうとするので、半弥は心残りであった。

「またお逢いするまでの形見に」

と、半弥は男に、浅葱繻子の袷と大名ごしらえの兼光の中脇差を贈った。

半弥は、ひそかに連れの男に故郷を尋ねた。
「あいつは土佐の者ですが、お目にかかれるのもこれが最後で、もう今頃は船出のはず」
と言い、連れの男は大声で泣きだした。

出船を告げる船頭の声とともに帆を上げ、船は大川口の一の州から出た。
土佐の男の涙の数は、波の白玉よりも多いことだろう。

その日は蘆を吹く海風の向きが変わったので、三軒屋という所に船を停泊した。
今日の夕暮れの淋しさに 土佐の男は物思いに沈み、日記を書いてみようかという気になった。

四月五日の宵月は、男もすなる半弥様の挿櫛のようだ。
そんなことを考えるうち、村雨がにわかに降ってきて、思いがけなく自分の袖を濡らした。
水鶏の鳴き声は、芝居の終わりを告げる櫓太鼓のようだ。
ここは遠く離れた難波島だが、心は道頓堀を離れない。
蛍も旅回りの若衆のようで、その光を近くの尻無川に映しているのは面白かった。

明けて六日の朝は風が強く、碇を上げ 左へ舵を取って磯伝いに進んだ。
そのうち、尼崎・鳴尾の沖のあたりから また風向きが変わった。
広田の社を遠く眺め、夢見るような気持で行くうちに、船はやっと和田の岬にたどり着いた。
私は安堵したが、武庫山は雲に隠れて半分も見えず、しだいに心細さで胸が苦しくなった。
騒がしい船のきしむ音を聞きながら、角の松原や須佐の入江をこえると、船は夕暮れに兵庫の港へ上陸した。
宿で風呂をたかせて洗った髪に、半弥様から形見にもらった初瀬という名香を焚きしめると、私はますます半弥様が恋しくなった。

七日は夜船にあわただしく乗り込み、うっかり宿に煙管を忘れてしまった。
塩焼く小屋は、煙も絶えてもの淋しい。
須磨の上野も推量に眺め、夜もほのぼのと明ける頃、人麿神社が目に止まったので拝んだ。
明石に近づくとにわかに村雨に襲われ、船では苫を葺くという騒ぎだった。
しかし、この雨でホトトギスの声が聞けるかもしれない。そう思うとうれしくなった。
また半弥様の初音が聞けるかもしれない。心はうわの空になり、
八日も同じ所に停泊して思いにふけり、九日に船出し、十日の朝は備前の唐琴の宿を経て虫明の瀬戸にさしかかった。

昔、飛鳥井の姫が、扇に和歌一首を書き残して身を投げたという。
その話を思い出すにつけ、その扇は半弥様が趣向を凝らした古歌模様ではないかと思われた。

波は穏やかで風もない。十一日は昼船を走らせて、備後の鞆の津に着いた。
同船の人々が上陸したので、私も一人では淋しくて後を追った。
するとここにも廓があり、女郎の身なりも素人の女よりはましなものだった。
上方ではもう流行遅れになった「春の山道は、さぁんさ」の歌を今でも弾いて踊る様子がおかしくて、とても見ていられない。
少しはましな女郎の姿さえだんだんと嫌になり、素人女にいたっては身の毛がよだつようになったので、早々に船へと引き下げた。

下りの風向きもよく船出し、風早の浦を過ぎた十二日の暮れ方から土佐の男は鬱々と気が滅入ってきた。
前後不覚に ただ半弥の顔だけを思い浮かべ、身もだえて男は気が変になった。
船頭どもは怪しく思って男を磯に降ろし、漁師の家に頼んで友達が二人付き添い、休養させた。
だがその甲斐もなく、男はしだいに憔悴し もがき苦しんだ。

今思えば、余計な形見だった。
大阪を旅立つ時に半弥が贈った脇差で、男はみずから命を落とした。
男の血は草や芥を染め、死骸を道ばたに横たえた。

恋ゆえに最期をとげた男の想いは日記に書いてあったが、残されたのは名前ばかり。
土佐名産・硯の海のようには、男の心は浅くなかったようだ。


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