» 崇神天皇(三輪山伝承)「古事記 -712年献上 作者:太安万侶 -」

古事記

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古事記は存在する日本最古の歴史書。
上巻は日本神話、中巻は神武天皇から
応神天皇までの記事、下巻は仁徳天皇
から推古天皇までの記事が収られます。

崇神天皇(三輪山伝承)「古事記 -712年献上 作者:太安万侶 -」

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御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニヱノミコト)は師木の水垣宮で天下を治めました。

祟神天皇は木国造である荒河刀弁(アラカハトベ)の娘の遠津年魚目々微比売(トオツアユメマクハシヒメ)を娶り、豊木入日子命(トヨキイリヒコノミコト) と豊?入日売命(トヨスキイリヒメノミコト) が生まれました。

尾張連の祖先の意富阿麻比売(オオアマヒメ)を娶り、大入杵命(オオイリキノミコト) ・八坂之入日命(ヤサカノイリヒコノミコト) ・沼名木之入日売命(ヌナキノイリヒメノミコト) ・十市之入日売命(トオチノイリヒメノミコト) が生まれました。

孝元天皇の息子・大毘古命(オオビコノミコト)の娘である御真津比売命(ミマツヒメノミコト)を娶り、 伊玖米入日子伊沙知命(イクメイリヒコイサチノミコト) ・伊耶能真若命(イザノマワカノミコト) ・国片比売命(クニカタヒメノミコト) ・千々都久和比売命(チチツクワヒメノミコト) ・伊賀比売命(イガヒメノミコト) ・倭日子命(ヤマトヒコノミコト) の6柱が生まれました。

祟神天皇の子供は12柱。 男は7柱、女が5柱です。
このうち伊久米伊理毘古伊佐知命(イクメイリビコイサチノミコト)が天下を治めました。

豊木入日子命は上毛野・下毛野君等の祖先です。
妹の豊?比売命(トヨスキヒメノミコト)は伊勢神宮に仕えました。

大入杵命は、能登臣(ノトノオミ)の祖先です。
倭日子命。この王の時に、初めて陵に人垣を立てました。

祟神天皇のときに、疫病が流行して国民が全滅しそうになりました。
天皇は悲しみ、神の意思を問うために神床で眠りました。その夜、大物主大神が夢に出てきました。

「疫病はわたしが流行らせた。意富多々泥古(オホタタネコ)という人物にわたしを祀らせれば祟りは起きなくなり、国は平安になるだろう」
と言いました。

そこで使いを放ち、あちこちで意富多々泥古なる人物を探したところ、河内の美努村で見つかり、朝廷に差し出されました。

「お前は誰の子だ?」
「私は大物主大神が陶津耳命(スエツミミ)の娘である活玉依毘売(イクタマヨリビメ)を娶って生まれた櫛御方命(クシミカタノミコト)の子の飯肩巣見命(イヒカタスミノミコト)の子の建甕槌命(タケミカヅチノミコト)の子、意富多々泥古です」

祟神天皇が尋ねると 、意富多々泥古はそう答えました。
祟神天皇は「これで天下は静まり、国民は栄える」と喜び、
すぐに意富多々泥古を神主として、三輪山に意富美和之大神を奉りました。

また伊迦賀色許男命(イカガシコオノミコト)に命じて皿を作り、天津神・国津神の神社に納めました。
また宇陀の墨坂神(スミサカノカミ)に赤い盾と矛を収めました。
また大坂神(オオサカ)に黒い盾と矛を収めました。
また坂の神や河の瀬の神にいたるまで、全てお供えをして祭りました。

これですっかり疫病は無くなり、国は平和になりました。

意富多々泥古が神の子孫であると分かったのはこのようなわけです。

上に述べた活玉依毘売(イクタマヨリビメ)はとても美しい少女でした。
その乙女のもとに姿も衣装もとても立派な男性が、夜になるとやってくるのです。
やがて、愛し合い二人は結ばれ、ともに暮らしているうちにほどなく乙女は身ごもりました。

父母は娘が身ごもったことを不振に思い、娘に尋ねました。

「おまえはいつしか身重になっているが、夫がいないのにどういうわけで身ごもったのか」
「貴く立派な男の人で、その姓も名も知らない人が、夜ごとに通ってきて、共に住んでいるうちに、いつの間にか身ごもってしまったのです」

両親はその男性のことを知りたいと思い、娘に言いました。

「赤土を床にまき、糸巻きに巻いた長い麻糸を針に通して、男の着物の裾に刺しなさい」

娘は言うとおりにしました。翌朝見てみると、麻糸は戸の鍵穴を通り、糸巻きに残っていた麻糸はたった三巻きだけでした。
それで男が鍵穴から出て行ったことがわかりました。
その糸をたどって行くと、三輪山の神社にたどりつきました。
それでその男は、実は三輪の大物主の子であることがわかりました。
古事記より崇神天皇(三輪山伝承)

麻糸が三輪糸巻きに残っていたことから、その地を美和と呼ぶようになりました。
この意富多々泥古命は神君(ミワノキミ)・鴨君(カモノキミ)の祖先です。

またこの天皇の御代に、大毘古命を越国に遣わし、その子のタケヌナカハワケノ命を東方の十二国に遣わして、その国の服従しない人々を平定なさいました。またヒコイマスノ王を丹波国に遣わして、玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)という人を討ちました。

さて、大毘古命が越国に下って行ったとき、腰裳を着けた乙女が、山城の幣羅坂に立って歌っていました。

 御真木入彦はや 御真木入彦はや おのが命を 盗み殺せむと 後つ門よ い生きたがひ 前つ門よ い生きたがひ うかかはく 知らにと 御真木入彦はや
 (ミマキイリビコよ、ミマキイリビコよ。自分の命をねらっているものが、裏門から入れ違い前文から行き交いして様子をうかがっているというのも知らないで。ミマキイリビコよ)

大毘古命は、不思議に思って馬を返し、その乙女に尋ねました。

「お前が今言った言葉は、どういう意味か」
「私は物を言ったのではありません。ただ歌を歌っただけです」

乙女はそう答えると、たちまち行方も知れず姿を消してしまいました。
大毘古命は都に引き返して、天皇にこのことを奏上しました。

「これは山城国にいるあなたの異母兄の建波邇安王が、野心を抱いたしるしに違いありません。伯父上、軍勢を整えて討伐に向かってください」

天皇はそう仰せられ、和邇臣の祖先の日子国夫玖命(ヒコクニブク)を副官にし遣わされました。

その時、 日子国夫玖命は丸邇坂に清めた酒甕を据えて神を祭り、出て行かれました。
ところが山城の和訶羅河(木津川)にやって来たとき、かの建波邇安王は、軍勢を整えて待ち受け、行く手を遮っていました。それぞれ川を間にはさんで対峙し、たがいに戦をしかけました。それでその地を伊杼美(現在は伊豆美)といいます。

「まずそちらの人から合戦の合図の矢を放ちなさい」

日子国夫玖命は建波邇安王に言いました。
そこで建波邇安王が矢を射ちましたが当たりませんでした。
ところが国夫玖命の放った矢は、建波邇安王に命中しました。

王が死んだので、その軍勢は総崩れとなって逃げ散りました。
そこでその逃げる軍勢を追いつめて久須婆の渡し場にやって来たとき、王の軍はみな攻め苦しめられ、屎が出て褌(袴のこと)にかかりました。それでその地を屎褌(久須婆)といいます。

その逃げる軍勢の行く手を遮って斬ったので死体が鵜のように川に浮かびましだ。それでその川を鵜河といいます。またその兵士を斬り屠ったので、その地を波布理曾能といいます。
こうして大毘古命は戦に勝ちました。山代国を平定し終え、都に凱旋して天皇に報告しました。

大毘古命は崇神天皇の命じられたとおり、高志国のへと向かいました。
そこで東方へ遣わされた息子の建沼河別と合流し、相津へと向かいました。
二人が会ったことから、そこを会津と呼ぶようになりました。

こうして各地域の平定を終え、天下は太平となりました。人民は富み栄えました。

天皇は、男の弓矢で得た獲物や、女の手で織った織物などの物品を初めて納めさせました。
それでその御世を称えて、「初国知らしし御真木天皇」といいました。
この時代に、灌漑用の依網池と酒折池を作りました。

天皇の享年は百六十八歳。御陵は山辺道の勾の岡のほとりにあります。

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