» 巴:前編「謡曲」

中世の物語

中世の物語

平安時代の雅から一変武士の社会へと
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巴:前編「謡曲」

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——行けば深山も、浅き路。行けば深山も浅き路。木曽路の旅に出かけよう。

「わたくしは、木曽の山家より出てきた僧で御座います。いまだ都を見ずにおりましたが、此の度思い立って、供を連れて都への旅に出ることに致しました」

——旅衣着て。木曽の御坂を遥々と。木曽の御坂を遥々と。思い立った日より美濃尾張。暮れごとに宿も定めず、夜を重ねて日を刻み。行けば程なく近江の路。

「おお、鳰(にお)の海とはこれであったか」(※鳰の海……琵琶湖の異称)

山間にはない、開けた澄んだ青。逸る心もそのままに、足早に歩を進めると、近江の国鳰の海のほとり、粟津の原と云われるところにたどり着いた。
一行は、ここで暫く休むことにした。腰を降ろしてふと辺りを見回すと、女がひとり寂しく佇んでいる。

「ああ、鳰の浦波の、静かな様が面白いこと。……粟津の原の松蔭に神を御祀りすれば、そのご利益もさぞや頼もしいでしょう……」
すると、女の目から一筋、涙がつうと流れた。
「一体どういうことなのか。この女性は神に参るというのに、なぜ涙を流しているのだろう。どうにも不思議なことだ」

女は音もなく僧の方へ向き直ると、落ち着いた様子で話しかけてきた。

巴:前編「謡曲」
「御僧が仰っているのはわたくしのことでしょうか」
「ええ、神様にお参りしているのに涙をお流しになっているのを不審に思ったのです」
「愚かなことだと不審に思われるのですか。
伝え聞くところによりますと、行教和尚が宇佐八幡に詣でなさったとき、
『何事の おはしますとは知らねども かたじけなさに涙こぼるる(どういうお方がおられるのか分からないけども、畏れ多さにただただ涙がこぼれます)』とお詠いなさいました。
そして神様も哀れに思し召されたのでしょうか、御衣の袂に御影をお映しになり、それより行教和尚は都の男山に誓を示して国土安全をお守りなさったと聞いております」
「なんとお優しい心をお持ちなのでしょう。この里は都にも近いゆえ、あのたおやかな気風があるのですね」
「さて、御僧の住む国はどの国で御座いますか」
「わたくしは信濃の国、木曽の山家の者にてございます」
「木曽の山家の者ならば、粟津が原の神の御名を、是非とも知り置いておくことですよ。
この場所に御祭神として祀られておりますのは、あなたのお住みになる木曽より出でし木曽義仲。是非に拝みなさいませ、旅のお方」
「なんと不思議な縁(えにし)であるか。義仲様が神となってこの地に鎮座ましますとは。謹んで神前に手を合わせましょう」

——いにしえの。これこそ主君よ名は今も。いにしえの、これこそ主君よ名は今も。
有明月の義仲の。仏と現じ神となり、世を守り給う誓こそ有難く。
旅人よ「一樹の蔭に宿るも他生の縁」と思し召し、この松が根に旅居して、夜もすがら読誦して、神の五衰を慰め給う。
有難き値遇(ちぐう)かな、まことに有難き値遇かな。

そうするうちに山の端に日は暮れ行き、入相(いりあい)の鐘の音が浦の波音と溶け合い響き渡った。
いずれの景色も物寂しくなってきた折、女は、我も亡者なのだと明かした。
そして、その名を知らなければこの里人にお尋ねなさいと言うと、音もなく夕暮の草葉の陰に入っていった。

|| 巴:後編>>


「巴」登場人物

<里女(前シテ)>
粟津の原にいる神の前で涙を流す不思議な女性。
<木曽の僧(ワキ)>
木曽の山家から出てきた旅の僧。

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