» 白峰「雨月物語-1768~1776年刊 著者:上田秋成 -」

雨月物語

雨月物語

怪談物語をおさめた短編小説集「雨月物語
死してなお残る「信念」「執着」と
いったものが描かれています。

白峰「雨月物語-1768~1776年刊 著者:上田秋成 -」

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逢坂の関守に通行を許されて、東へ向かう。すると秋の到来した山の紅葉は見逃しがたく、浜千鳥が足跡をつけて遊ぶ鳴海潟、富士山の高嶺の煙、浮島が原、清見が関、大磯・小磯の浦々、紫草の咲き誇る武蔵野の原、塩竈の穏やかな朝景色、象潟の蜑が苫や、佐野の舟梁、木曾の桟橋、……どれひとつとっても心に残らない景色はなかったが、それでも西の国の歌枕を見たいと思って、仁安三年の秋、葭が散る難波を経て、須磨・明石の浦ふく風をしみじみと身に感じながらも、歩いて歩いて、讃岐の真尾坂の林というところで、西行はしばらく滞在することにした。はるかな長旅の疲れを労わるためでない。仏法修行をするために庵を結んだのだ。

この里から近い白峰というところに崇徳上皇の御陵があると聞き、お参りしたいものだと、十月の初めにかの山に登った。松柏は奥深く茂っていて、青空に白い雲がたなびく天気のいい日ですら、小雨がそぼそぼと降っている。児が嶽という険しい峰が背後にそそり立ち、その深い深い谷底から霧が這い登ると、すぐ目の前ですら足元がおぼつかない。すると、木立が僅かに途切れたところに土を積み上げ、石を三重に積み重ねただけの塚が、うら悲しくも茨や蔓草にうずもれていた。これが御墓であろうかと、西行は悲しみで目の前が真っ暗になり、夢と現実の区別もつかなくなった。

思えば、院のご生前お目にかかったときは、紫宸殿・清涼殿の御座で政務をとっておられたそのお姿を、多くの官人たちはかくも賢明な君主でいらっしゃると、御命令をつつしみお仕えしていた。近衛院に譲位なさっても、上皇御所の玉の宮殿にお住まいになっておられたのに、誰ひとりとして通う者なくただ鹿の足跡のみが僅かに残る、こんな深い山の草木や茨の下に崩御されていようとは。天子でいらっしゃってさえ、前世の因縁というものが恐ろしいまでに院に付きまとって、罪業をまぬがれなされなかったことよと、世の儚さを思うと涙がとまらない。
せめて夜通し供養申し上げようと、御墓の前の平らな石の上に座って読経しながら、あわせて歌を詠みあげた。

  松山の浪のけしきははからじを
  かたなく君はなりまさりけり
  (古歌の松山の浪の景色は今でも変わらないのに、
   あなたは跡形もなく亡くなってしまわれた……)

なお、読経を続けた。夜露と涙がどれほど袖を濡らしただろうか。やがて日は没し、深い山中の様子はただならぬ様子である。石の床も、木の葉の夜具も大層寒く、心はさえざえと澄み渡り、骨の中まで冷え切ってしまって、なんともなしに凄まじい心地がする。月は出たけれども、茂った林は月光を通さないので、真っ暗な闇にもの悲しい思いで、眠るともなくうとうとしていると――「円位、円位」と呼ぶ声がする。
目を開いて透かし見ると、背の高く、やせ衰えた異形の人が、顔のかたちや着ている衣の色や模様もはっきり見えないまま、こちらに向かって立っていた。
西行は仏道の悟りを開いた僧侶であるから、恐ろしいとも思わず、「ここに来たのはどなたか」と尋ねる。かの人は言った。「先に詠んでくれた歌を返そうと思って、姿を現したのだ」と。

  松山の浪にながれてこし船の
  やがてむなしくなりにけるかな
  (松山の浪に流れていってしまった船のように、
   我が身はこの地で朽ち果ててしまったことよ)
白峰「雨月物語-1768~1776年刊 著者:上田秋成 -」
「よくぞここまで参ってくれた」とその人がおっしゃったのを聞いて、これぞ崇徳新院の霊であることに気づき、地に跪いて涙を流した。「しかしながら、どうしてお迷いになられたのですか。汚れた現世から離れられたことが羨ましく思われましたからこそ、こうして今夜は供養して仏縁にあやかり申しておりますのに。お姿をお現しになるのはありがたく存じますが、現世に未練を残す迷いの心はお悲しゅうございます。ただ現世の妄執を忘れて、果報に満ちた仏の位に成仏なさってくださいませ」と、心を尽くして諌め申し上げた。

新院はからからと笑われて、「そなたは知るまいが、近頃の世の乱れは我が起こした事なのだ。生きて在りし日は悪魔道の習得を志し、魂を傾けて、平治の乱を起こさせ、死んでなお、朝廷に祟りをなしている。見ているがいい、もうすぐ天下に大乱を起こさせてやるぞ」と言う。
西行はこのお言葉に涙をとどめて、「これはまた、あさましいお言葉をお聞きしたものです。あなたはもとより聡明だとのご評判がおありですから、君主の道のあるべき姿は明らかになさっておりましょう。試しにお尋ね申し上げましょう。保元の乱のあのご謀反は、天照大神のお教えになった道理には背かないと思い立たれたのでしょうか。それとも、自らの私利私欲によって企てられたのでしょうか。詳しくお話くださいませ」と申し上げた。
その時、院は血相を変えた。「汝、聞け。天皇の位は人間至上の位である。もし帝が人倫の理を乱すことがあれば、天の命に応じ、民の望みに従ってこれを討つのだ。そもそも永治元年、犯した罪もないというのに、父鳥羽法皇の命を畏んで、三歳の体仁(としひと)に位を譲ったその心を、人欲の深いものだと言うべきではない。体仁が夭折された上は、我が息子の重仁(しげひと)こそ国を治めるべきものだと、我も人民も思っておったのに、藤原得子の嫉妬に妨げられて、第四皇子の雅仁に位を奪い取られたのは、深い恨みではないか。重仁には国を治める才能がある。雅仁になんの器があるというのだ。人の徳を選ぼうともせず、天下の大事を女后に相談して決められたのは、父帝の罪であるぞ。
しかしながら、ご在世のうちは孝行と信義の心を守り、決して顔色にも出さなかった。だが崩御になった以上、いつまでこのまま黙っていられようかと、武力を用いる心を起こしたのだ。周の武王のように、臣下でありながら主君を討つことでさえ、天命に応じて人民の望みに従えば、周の国八百年の基を作る大業となったではないか。ましてや天皇として国家を治める資格のある身で、女后が政治に口出しする代を交代させようというのに、道理を外れているなどということを言わせるものか。
お前は出家して仏道に溺れてしまっている。現世の煩悩から脱却しようと願う心から、人間の道を無理矢理仏教の因果応報に引き入れて、中国古代の聖王尭舜の教えを仏教にまじえて我に説くつもりか」と、荒々しいお声で仰せられた。

西行はますます恐れる様子もなく、さらに座を進み出た。「あなたのおっしゃいますことは、人道の理を名目にしながら、私利私欲を逃れられてはいらっしゃいません。遠く中国の例えを出すまでもありませぬ。
我が国でも昔、応神天皇は、兄皇子大鷦鷯王子(おおさざきのみこ)を差し置いて、末弟の皇子菟道王子(うじのみこ)を皇太子になされました。天皇が崩御なさったときは、兄弟ともに位を譲り合い、どちらも帝位にお即きにならなかった。三年の年月が経ってもなお譲り合いが終わらないため、菟道王子は深くお悩みになって、『これ以上私が長く生きて、天下を煩わせられようか』と、ご自身の手で生命をお断ちになられたので、やむを得ず兄の皇子が帝位に即かれたのでございます。これこそ皇位を重んじて孝悌を守り、誠実を尽くして私欲がありませぬ。尭舜の道というべきでございます。我が国では儒教を尊んで、もっぱら天皇の道を行う助けとしているのは、この菟道王子が百済の王仁を召されてお学びになったのをその初めとするので、この兄弟王の御心こそ、そのまま中国の聖王の御心といえるのでございます。
また、『周の建国の際、武王はひとたび憤りを発して暴帝紂王を討ち、天下の民を安らかにした。これを臣下の身でありながら主君を討ったなどと言ってはならぬ。仁にそむき、義にもさからって無茶な行いをした一人の不徳者として紂王を懲らしめたのである』という事が、孟子という書に書かれていると人づてにお聞きしております。それゆえ中国の書は、経典・史策・詩文にいたるまで渡来しないものはないのに、かの孟子の書だけが未だ日本には伝来していないのです。この書を積んで来る船は、必ず嵐にあって日本にたどり着かないのです。それがどういうわけかと問うと、我が国は天照大神が国をお開きになってから、世継ぎの天皇が絶えたことのない国であるのに、このような小賢しい教えを伝えたならば、後世に至って天子から皇位を奪って罪なしという賊も出るであろうと、八百万の神様がお憎みになって、神風を起こして船を転覆なさっているのだとお聞きしています。そうしてみれば他の国の聖人の教えといえども、この国の国柄には相応しくないことも少なくないのでございます。
その上、詩経でもこのように言っています。『兄弟は垣根の内、すなわち身内同士ではどんなに喧嘩してもよいが、いったん外敵が攻めてきたら団結してこれを防げ』と。それなのに両親の愛をお忘れになり、その上に鳥羽法皇が崩御なさって、殯の宮に安置されているご遺体でさえ未だ冷たくおなりにならないのに、軍の旗をなびかせ弓を振り立てて戦を始め、皇位を争いになるのは、不孝の罪にこれ以上のものはございませぬ。老子の教えにある通り、天下は神器でございますゆえ、人が私利私欲をもって奪い取ることなどできない道理であるのに、例え重仁皇子のご即位が民衆の待ち望むことであったとしても、徳を敷き広め平和をお与えにならず、人の道に外れた方法をもって世をお乱しになれば、昨日まではあなたを慕っていた民も、今日はたちまち敵対者となって、あなたの目的をもお遂げにならないで、昔にも先例のない罪を得られ、このような辺鄙の地でお亡くなりになられたのです。この上はもう、ただただ過去の憎しみをお忘れになって、西方浄土へおかえり下さることこそ、お願いしたいあなたの御心であります」と、憚ることなく申し上げた。

院は長いため息をおつきになった。「今、お前は善悪を説いて、我の罪を責めた。道理がないわけでもない。しかしながらどうしようか。この島に流されて、高遠の松山の家に幽閉され、三日に一度の食事を届ける以外には、誰も我に仕える者はいなかった。ただ夜の空を飛ぶ雁の鳴き声が枕元近くに聞こえてくると、都へ行くのだろうかと懐かしく、暁の浜辺で千鳥が鳴き騒ぐ声も、我が心を苦しめるもととなる。たとえ烏の頭が白くなろうとも、都へ帰るときは来ないであろうから、きっとこの浜辺の亡霊となってしまうことだろう。ただただ来世の幸福のためにと、五部の大乗経を書き写したのであるが、近くに寺の貝・鐘の音も聞こえない、こんな荒々しい海村にとどめ置くのも悲しい。せめて我が写経の筆跡だけでも都の中へ入れさせ給えと、仁和寺の門跡の許へ、経に歌を添えて送り届けたのだ。

  浜千鳥跡はみやこにかよへども
  身は松山に音をのみぞ鳴く
  (あの千鳥、我が筆跡は都に行くことができるけども、
   我が身はこの松山の地でただ泣き沈むばかりである)

しかし少納言信西が処置をはかって、『もしや帝を呪う魂胆では』と奏上したばかりに、そのまま返却されてきたことこそ恨めしいことであった。昔から、日本でも中国でも、帝位を争って兄弟が敵対した例は珍しくないが、それが罪深いことだと思ったからこそ、自分の悪い心を懺悔しようと思って写した御経であるのを、いかに妨げる者があったとしても、議親法に背いてまで、写経すら都にお入れにならない帝の御心こそ、今は永劫の憎しみである。この上はいっそこの経を魔道に捧げて、恨みを晴らそうと、ただ一筋に思い定めて、指を噛みちぎり血をもって願文を書き写し、経とともに志戸に沈めた後は、人にも会わず閉じこもって、一途に魔王となる大願を祈っていたが、果たしてあの平治の乱が出来したのであった。
まず藤原信頼の高い地位を望む傲慢の心をそそのかして、源義朝の味方につかせた。この義朝こそ憎き仇敵であるぞ。父の為義をはじめ、兄弟の武士はみな我のために命を捨てたのを、彼一人だけが我に弓を向けおった。為朝の勇猛、為義と忠政の戦略によって勝ち目が見えていたのに、西南の風に乗じて焼き討ちされ、白河の宮を逃れ出てからは、如意が嶽の険しさに足を傷つけられ、あるいは木こりの柴を身にまとって雨露をしのぎ、ついに捕われてこの讃岐に流されるまでは、みな義朝の狡猾な戦略に苦しめられたのだ。この報復をしようと我が義朝の心に残忍な心を生じさせるように祟ってやり、信頼の陰謀に加担させたから、国津神に逆らった罪により、さほど武勇に優れていない平清盛に討たれた。奴が家臣に殺されたのは、天の神の祟を受けたからなのだ。
また少納言信西は、常に学者ぶり、人を拒み心が狭く素直でない。この信西の心をそそのかして信頼・義朝の敵にしてやったから、ついに家を捨てて宇治山の穴に隠れたのを、結局探し出されて京都の六条河原に首を晒した。これは写経を突き返した諂言の罪を、その一命をもって贖ったのだ。
その余勢をかって、応保の夏はかの妃・美福門院の命を奪い、長寛の春は忠通を祟って、我もその年の秋にはこの世を去ったが、それでもなお怒りの火が燃え盛るままに、ついに大魔王となって、三百余類を従える首領となったのである。我が配下の者たちがしてのけることは、人の幸福を見てはこれを災厄に転じ、世の太平を見ては乱を起こさせた。
ただ清盛だけは運に恵まれており、親族一族全てががことごとく高官高位に連なり、自分勝手な国政を執り行っているが、その子重盛が忠義をもって補佐しているので、平家を滅ぼす時が未だ来ていない。汝、見ているがよい。平氏の運ももはや長くはないぞ。雅仁が我に辛く当たったことだけは、最後にはきっと報いてやる」と、そのお声はますます恐ろしく聞こえた。
西行は言った。「あなたがここまで魔界の悪縁にしばられて、極楽浄土に億万里も遠く隔ててしまわれている以上、もはやなにも申し上げませぬ」後はただ、口を閉ざしてひたすら向かい合っているだけである。

その時、峰も谷も揺り動き、風が林を吹き倒さんばかりに吹き荒れ、小石が空に巻き上がった。みるみるうちにひと塊の鬼火が新院の膝の下から燃え上がって、山も谷も昼間のように明るくなる。光の中でよくよくその様子を拝見すると、真っ赤になったお顔に、膝までかかる髪が生い茂る雑草のように乱れ、白い目を吊り上げて、熱い息を苦しげに吐いていらっしゃる。その御衣は柿色のひどくすすけたものを召され、手足の爪は獣のように伸びて、さながら魔王そのままのお姿のように、あさましくもまた恐ろしい。
空に向かって「相模、相模」とお呼びになる。「はい」と答えて、鳶のような怪鳥が飛んできて、その前にひれ伏してお言葉を待つ。新院はこの鳥に向かった。「どうしてさっさと重盛の命を奪い、雅仁や清盛を苦しめないのだ」怪鳥は応えて言った。「上皇の幸運は未だ尽きず、重盛の忠義と信義の心が篤いので近づけません。今から十二年ほど待てば、重盛の命も尽きているはずです。彼が死ねば、一族の幸運もまた一気に滅ぶはずでしょう」院は手を打ってお喜びになった。「あの仇敵どもをこの近くの海に滅ぼしてしまえ」と、そのお声は谷や峰に響き渡って、その凄まじさは口では語れまい。西行は魔道のあさましい光景を見て、涙を抑えることができず、再び一首の歌に仏縁帰依の御心をお勧め申し上げた。

  よしや君昔の玉の床とても
  かからんのちは何にかはせん
  (たとえ昔は立派な玉座におられたとしても、
   お隠れになった今となってはなんになりましょう)

王族も土民も死んではみな同じでありますものをと、感情が高まり溢れ、西行は声高らかに歌い上げた。
上皇はこの言葉をお聞きになって、感心されたようであった。そのお顔つきも穏やかになられ、陰火も次第に薄れてゆき、ついにそのお姿もかき消すように見えなくなった。怪鳥もどこへ去ったのか跡形もなく、十日あまりの月は峰に隠れて、生い茂っている木々の真っ暗闇につつまれて、まるで夢を見ているよう。ほどなくして、夜が明けていく空に朝鳥の鳴き声が爽やかに聞こえてきたので、西行はかさねて金剛経一巻を供養し申し上げて、山を降りて庵に帰り、静かにこの一夜のことを思い出してみると、新院のお語りになったことは平治の乱をはじめとして、その登場人物の消息や年月に全く違いはなかった。そこで、西行は深く口を慎んで他人には一切口外しなかった。

その後十三年を経てた治承三年の秋、平重盛は病にかかって世を去ったので、平清盛は後白河法皇を恨んで鳥羽離宮に幽閉申し上げ、さらに福原新都の茅の宮に押し込め苦し奉るということがあった。
源頼朝は関東から兵をあげ、義仲は北の信濃から雪を払って出陣したため、平氏の一門はことごとく西の海に漂い、ついに讃岐の志戸の海、屋島の浦に至って、勇猛な武士たちの多くは水中に没して魚の餌食になり、赤間が関・壇ノ浦に追い詰められて、幼帝安徳天皇も入水なされ、平家の武将たちも残らずここに滅びてしまったというのが、あの話と少しも違わなかったことが恐ろしくも不思議な語り草であった。
その後、白峰のご霊廟は玉をちりばめ、極彩色を施して、崇徳上皇のご威光をながく崇め奉った。この国へ行く人は、必ず供物を捧げて拝み申し上げなければならない御神であったという。

|| 菊花の約>>


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