童子女松原(常陸国風土記 香島郡条)
常陸国鹿島郡の軽野は南に、童子女(うない)松原がある。
はるか昔、年若き童子たちがいた(国言葉で、神のをとこ、神のをとめという)。男は那賀の寒田の郎子といい、女は海上の安是の嬢女といった。いずれの童子も、気品に満ちた端正な面差しで、辺りの村里に光り輝いていた。
彼らはその美貌の名声を相聞いて、会いたい、という想いを持ち、ついには自制の心を失ってしまった。
月を経て日を累ねたある時、嬥歌の集い(国言葉で言うにウタガキ、或いはカガヒ)にて、ふたりは国を越え思いがけず出逢うことができた。
そこで郎子が歌ったことには、
いやぜるの阿是の小松に木綿垂でて吾を振り見ゆも阿是小島はも
(いやぜるの阿是の小松に、神へと捧げる木綿を垂らし、私に向かって振っているのが見えるよ、阿是の乙女よ)
嬢女の応えて歌ったことには、
潮には立たむと言へど奈西の子が八十島隠り吾を見さばしり
(私は潮に潜んでいよう、と言ったのだけれども、愛しいあなたが島々に隠れながらも、私を見て駆け寄ってくるよ)
そうして、二人は語り合いたいと思い、人に知られることを恐れて、歌垣の場から逃げ出し、松の下に身を潜め、手と手を相携え膝をつきあわせて、胸の裡を述べて、鬱積していた恋情をすべて吐き出した。
長病みのごとき恋の苦しみがほどけ、また新たに溢れる恋の悦びから微笑みがこぼれる。
折しも玉露おき涼やかなる風吹く晩秋のころ、皎々たる月の照らすところは、鳴く鶴の向かう西の洲である。颯颯たる松風の鳴るところは、渡る雁の向かう東の山である。
夕には静かな中を巌の清水が旧くからの音を聞かせ、夜には寂しい中をけぶる霜があたらしい。近い山には自然と紅葉の林に散るさまが見え、遠くの海にはただ蒼波の岩に打ちつける音が聞こえる。
今宵ここに、これ以上の楽しみなど無い。
二人はひとえに愛のささやきの甘い味わいに溺れ、ひたすらに夜の開けようとするのを忘れてしまった。にわかに鶏は鳴き犬は吠え、空は暁に染まり朝日はいちめんを明るく照らしている。
こうして童子たちは、一体どうしていいのかわからなくなってしまい、ついに人に見られることを恥じるあまり、松の樹へと化してしまった。
郎子だったほうを奈美松(訳者註:勿見松、勿見は見るなの意)といい、嬢女だったほうを古津松(訳者註:屑松、材木として利用されることのない松か)という。遠い昔にこのように名付けて、今に至るまでそう呼ばれている。
「童子女松原」登場人物
<那賀の寒田の郎子(なかのさむたのいらつこ)>
大化前代、那賀国の造(みやつこ)の所管地であった寒田の沼の青年。
<海上の安是の嬢女(うなかみのあぜのいらつめ)>
大化前代、海上国の造の所管地であった安是の湖の少女。