» 竹芝伝説(菅原孝標女『更級日記』より)

古代の物語

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竹芝伝説(菅原孝標女『更級日記』より)

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目の前の光景に、少女は落胆の色を隠せなかった。
武蔵国(むさしのくに)には紫草が生えていると聞いていたのに、実際、目に映った景色はそんな優雅さの欠片もない。ただ、葦や荻が生い茂るばかりで、伸びっぱなしのそれらは、馬上の人が持っている弓の先さえ見えなくなるほどだった。
けれど、その茂みの中を踏み分けて行くと、しばらくして「たけしば」という寺が目に入った。
「一体、どういうところなの?」
少女が尋ねると、土地の男は訛りの強い口調で律儀に答えた。
「ここは、昔、『たけしば』と呼ばれた坂でした。こんな話があります。昔、この国に住まう男が、火焼屋(ひたきや)の衛士として、都に上がったのですが……――」

青年は、辟易していた。
彼は火焼屋の衛士であった。火焼屋というのは、夜の間、ずっと火を燃やして警衛を行う番小屋のことで、宮中や后宮、東宮などに置かれた。彼は遠い東の国、武蔵の生まれであったが、国司の指名によって、その任に就いていた。
彼が警護する御殿は、人が住んでいるとは思えないほど静かだった。帝の子女が住まう宮には、大勢の女官たちが仕えているはずなのだが、卑しい庶民のいる場所になど近寄りたくもないのか、彼女たちの衣擦れの音すらしなかった。
欠伸を噛み殺し、気怠げに箒を動かしながら青年は独り言を呟いた。
「どうして、俺はこんな苦しい目にあっているんだろう。嗚呼、早く故郷に帰りたい。七つ、三つと、酒造りのために据えた酒壺に、さしかけた直柄(ひたえ)のひさごが、南風が吹けば北になびき、北風が吹けば南になびき。西風が吹けば東になびき、東風が吹けば西になびく、あの光景が懐かしいものだ……」
だが、誰に向けるでもないその言葉に、ひっそりと耳を傾ける者があった。
(……まぁ、面白い。あの男の話を、もっと聞いてみたいわ)
御殿の中から垣間見するのは、帝がたいそう可愛がっている姫宮であった。彼女は女官も侍らさず、たったひとりで御簾の際まで出でて、その男の様子を柱に寄りかかりながら眺めていた。
(どんなひさごが、どんな風になびくのかしら)
と、年相応の好奇心で胸を膨らませる。
彼が語る景色は、美しい絵巻物や、女官たちのお喋りの中にも聞いたことがなかった。
「そこの男、こちらへ参りなさい」
口うるさい女官たちがいないこともあって、姫宮は大胆に御簾を捲り上げた。
突如、響いた可憐な声に、青年は肩を強張らせる。そして、御簾から顔を覗かせた少女の姿に、ぎょっと目を見開いた。
咎められるのだろうか、と冷や汗をかきながら勾欄(こうらん)の傍に近寄れば、姫宮は無邪気な声で言った。
「先程、お前が言った話をもう一度聞かせて頂戴。風になびく、ひさごの話を」
まとう衣の滑らかさ、桃花のような甘酸っぱい焚き物の香り。うっすらと化粧を施された匂やかな容貌に、彼は少女がとても高貴な身分にあることを知った。
だが、薄汚れた衛士の姿に怯むことなく、目を輝かせながらひさごの話をねだる彼女の様子に絆され、彼は少女のために、懐かしい故郷の景色をもう一度語った。

竹芝伝説

「ねぇ、わたくしを、お前の故郷に連れて行って。この目で、お前の語る景色を見てみたいの」
「……俺に、あなたを拐えと?」
青年は驚いて、まじまじと少女を見返してしまった。
貴人の少女を拐うなど、とんでもない。そうなれば彼にも、彼の親兄弟にも、どんな罰が与えられるか分からなかった。
けれど、彼女の大きな瞳を見つめていると、不思議と、こうなるべき因縁だったのではないかと思えてきた。
「……分かりました。あなたに、お見せしましょう。俺の生まれた国の景色を」
彼の返事に、姫宮は満面の笑みを浮かべた。そして、埃と汗の染み込んだ青年の手に、自らの白妙のような掌を重ねた。

青年は姫宮を背負い、見張りの目を盗んで武蔵国へと駆け抜けた。
追っ手が来るだろうと思って、勢多(せた)の橋に差し掛かると、橋の袂(たもと)に姫宮を下ろし、橋の板を一間ほど壊した。それから、そこを飛び越えて、再び彼女を背負って全力で走った。驚くことに、彼はたったの七日七夜で生まれ故郷へと到着した。
一方、宮廷は大混乱だった。大切な姫宮の姿が見当たらないと、帝や后は必死に愛娘の行方を探させた。
すると、ある者がこのようなことを申し出た。

「武蔵国の衛士の男が、とても香り高いものを首にかけて、飛ぶような早さで逃げるのを見ました」

そこで、この衛士の男を探させたが、彼の姿は都から忽然と消えていた。
きっと、生まれ故郷である武蔵国へ向かったのだろうと、すぐさま男たちが追いかけたけれど、勢多の橋が壊れて進めない。
三ヶ月経って、ようやく武蔵国に到着した使者が男の元を訪ねると、そこには予想通り姫宮の姿があった。
「わたくしは、宮廷へは戻りません」
しかし、男たちを出迎えた姫宮は、はっきりとした声で言った。
「前世から、きっとわたくしはこの地に住み着くべき宿命だったのでしょう。それほどまでに、ここでの暮らしは心地好い。……この男に拐ってもらったことを、わたくしは、ちっとも後悔しておりません」
困惑する彼らに向けられた表情は、拐われた高貴な女人には似合わぬ、晴れやかで満ち足りたものであった。
「わたくしの幸せを願うと言うのであれば、どうか彼を、そしてこの武蔵の国の人々を咎めないで下さい。そんなことになったなら、わたくしはこの先、どうしたら良いと言うのでしょう」
姫宮は、傍に控えた武蔵の青年へ、ちらりと眼差しを送った。その口許に笑みが咲く。それは、とても強い意志を孕んでいた。
「だから、早く帰って、帝にそのことを奏上なさい」

男たちはどうすることも出来ず、彼女の言う通りに渋々、都へと戻った。
帰還した使者より姫宮の言葉を伝えられた帝は、疲労の滲んだ顔で嘆息した。
「……致し方ない。たとえ、その男を罰しても、今となっては姫宮を取り返し、都に返してやることも出来ない。竹芝の男に武蔵国を預け与え、納税の義務も免除しよう。その領土のことは、姫宮にすっかり任せるように」
青年は我が家を内裏のように造って、姫宮を住まわせた。ふたりは子宝にも恵まれ、その子たちは「武蔵」の姓を名乗った。
やがて姫宮たちも亡くなり、その屋敷は寺となった。それが、この竹芝寺なのである。

「――このようなことがあったので、以後、火焼屋には女がいるのだそうです」
土地の男は、そのような由来で昔話を締め括った。

この数奇な運命を辿った姫宮の物語は、夢見がちな少女の心に深く残ったのだろう。後年、彼女が記したとされる『更級日記』では、この竹芝寺伝承が生き生きとした様子で語られている。


「竹芝伝説」登場人物

<火焼屋の男>
武蔵の生まれの火焼屋の男。火焼屋とは夜間火を絶やさず警衛を行う番小屋のことで、宮中や后宮、東宮などに置かれる職。
<御殿の姫宮>
大勢の女官たちが仕えている宮に住む帝の子女。

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