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中世の物語

中世の物語

平安時代の雅から一変武士の社会へと
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羽衣「謡曲」

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「風早の。三保の浦回(うらみ)をこぐ舟の。浦人さわぐ。浪路かな」
(三保の浦間に浪路をつくる浦人が、波風の戯れに騒いでいるよ)

わたくしは三保の漁師、白龍(はくりょう)にございます。
万里の高山に雲が湧き立っては消え、一縷の明月の光が雨上がりを告げる。
長閑なものだ。春の松原、汀(みぎわ)波立ち、朝霞立ち込めて。天の原に月残り。
俗世のこの身体が、景色に溶け込んでしまったかのようだ。

忘れない。山路を分け清見潟からはるか望んだ三保の松原を。
さあ行こう。さあ行こう。

風が吹いた。雲が浪立つのが見える。もう夜釣りもそこそこに人は帰るのか。
いや、今は春だから朝風が吹いても長閑なはずだ。
松は常磐の声である。浪は声なき朝凪だ。
浦はまだ小舟が出て、釣り人が多くいるではないか。

不思議に思って三保の松原へ上がり浦の景色を眺めていると、虚空に花が降り、奏楽の音色が響き、霊香が四方に薫り立つ。
これは只事ではないと思っていると、ふと見た松に美しい衣がかかっていた。
吸い寄せられるように寄って見ると、色香は妙にして常の衣ではない。
ぜひとも取って帰って古老にも見せ、家の宝としよう。

「もし、その衣は私のものです。なぜ持って行ってしまうのですか」
清らかな声に振り返ると、松の陰に美しい女が立っていた。
「これは私が拾った衣です。だから私が持って帰っても構わないでしょう」
「それは天人の羽衣で、容易く人間に与えていいものではないのです。元のところへ置いてください」
「この衣の持ち主とは。ではあなたは天人さまでございますか。
ならばこの末世の奇特な事として衣を留め置き国の宝にすべきだ。衣は返せません」
「嗚呼、わたしは羽衣がなくては飛ぶことも、天上に帰ることも叶いません。どうか返してください」

この言葉を聞いて私は調子に乗った。
どうせ自分は下賎の者だ。高貴な者に情けをかけることはないと羽衣を背に隠し、追いつけまいと逃げ出した。

今は天人もさながら羽なき鳥。天へ飛び立とうと思っても羽はない。天人は地上に降りて長くは生きられない。
ああ、どうしよう、どうしようと天人が悲しんでも、白龍は衣を返してくれないので、力及ばず、手も足も出ない。

――涙の露の玉鬘。かざしの花もしおしおと。天人の五衰も目のまへに見えてあさましや。
 天人が涙を流すと、髪に挿した花も枯れてしまった。天人の死が目前に迫ってきたのだ。
謡曲「羽衣」

「天の原 ふりさけみれば 霞たつ 雲路まどひて ゆくへ知らずも」
(天の原を仰ぎ見ると、霞が立ち込めた 雲路に惑い 帰る空もわからない)

――さ住み馴れし空にいつしかゆく雲のうらやましきけしきかな。
 住み慣れた空を悠々と流れゆく雲がうらやましい。慣れ親しんだ迦陵頻迦(かりょうびんが)の声も今はもう遥か遠い。
天路をゆく雁たちのゆくえを聞き、千鳥や鴎が沖の波と大空に吹く春風とともに遊ぶ姿を眺めていると、天上をこの上なく恋しく思うのだ。

「あの……。貴女のお姿をみるとあまりに心苦しくなってまいりました。衣をお返ししようと思います。」
「まあ、嬉しい! さあ、衣を返してくださいませ。」
「ただし、条件があります。天人の舞楽というものがあると聞いたことがあります。ここでそれを舞ってくださるのなら、お返しいたしましょう」
「嗚呼、嬉しい。天上に帰ることができるのだわ。
この喜びをのせて、人間の住む地上の世界への形見分けに、月宮殿をめぐる舞曲を今ここに奏しましょう。世を憂う人へと伝えます。けれども衣が無くてはそれも叶いません。まずは衣をお返しくださいませ」

「いや。この衣を返してしまえば、貴女は舞曲を舞わずに天へ帰ってしまう」
「疑いは人間が持つものです。天には偽りなどありません」

ああ、そうであった。私はなんと恥ずかしいことを……。
羽衣を天人にお返しいたしますと、乙女は衣を着て霓裳羽衣(げいしょううい)の曲をなし、天の羽衣は風に和し、雨に潤う花の袖を翻す。

――東遊(あづまあそび)の駿河舞。東遊の駿河舞。此時や始めなるらん。
 東遊の駿河舞はこの天人の舞から作られたのだろう。
遥かいにしえ、伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱が十方世界を理り修めたころ、空の限りはなく、綿々と続く空は久方の空と名付けられた。

「玉斧により造られた月宮殿、朽ちることなく常しえに」

――白衣黒衣の天人の。数を三五にわかつて。一月夜々の天乙女。奉仕を定め役をなす。
 そこには白衣と黒衣の天人が十五人ずつ住み、一夜ごと代わる代わる舞うことで月の理を定めている。

「我もかずある天乙女」

――月の桂の身を分けて仮に東の。駿河舞。世に伝へたる。曲とかや。
 月の天人が遊び下って舞うこの曲が、後の世に駿河舞として東国へ伝わった曲だろうか。
地上の空に春霞がたなびいて、月の桂の花もほころぶ頃。花鬘がこんなにも色めくのは春のせい。
この地上の景色もまた妙にして面白い。大空の風よ、天上へと通じる雲の路を吹き閉じよ。今はしばし留まって、この三保の松原の春の色を眺めようと思うのだ。
花咲く三保が崎、月の清見潟、雪景色の富士。春の曙にかすむ。波と松風がいろどる浦の、のどかなありさま。
この天地はどちらも神の末裔のもの。この国には日の光のみならず月の光も絶え間なく降り注ぐ。

「君が代に天の羽衣すら舞い降りて」

――地撫づとも尽きぬ巌ぞと。聞くも妙なり東歌。
 羽衣で触れようとも消えてしまわぬ巌のごとく磐石の御世でありますように、と天人は歌う。妙なる調べよ東歌。
笙・笛・琴・箜篌、数々の楽の音も雲間より零れ落ち。
落日のくれないは富士の山を染め、波は松の緑に浮かび、風は花吹雪を舞わせ。天人の白雲のようにたなびく袖が描く景色のうつくしさ。

「南無帰命月天子本地大勢至」

――東遊の舞の曲……。
その光景は、あるいは、天つ御空の緑の衣。または、春立つ霞の衣。
色香も妙なり乙女の裳裾、右に左に颯々の。
花を翳す天の羽袖。靡くも返すも、舞の袖。

――東遊の数々に。神秘を纏う月の色人(いろびと)は、十五夜の空の景(かげ)となり、大勢至菩薩の願い通り国土が豊かであるよう、天上より七宝を降らし給うた。
やがて、天の羽衣を浦風にたなびかせ、三保の松原、浮島が原の雲に紛れ。
愛鷹山、富士の高嶺へ昇りゆき、かすかになりて、天つ御空の、霞にまぎれて失せにけり。


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