» 花桜折る少将「堤中納言物語-作者:知れず-」

古代の物語

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花桜折る少将「堤中納言物語-作者:知れず-」

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「ああ、月に騙されてしまったか」
内に差す光に導かれて女の家をそそくさと出てきてしまったが、辺りはまだ夜の暗闇と静寂に包まれていた。
暗い部屋に取り残してきてしまった女を可哀相に思ったが、来た道を引き返すのも億劫で、そのままゆるゆると歩を進める。
あたりの家はしんと寝静まって物音ひとつ聞こえず、冴え渡る月の光が宵闇と桜花の端を霞ませている。
ぼんやりと桜を眺めながら歩き続けていると、一際美しい桜の木が目に留まった。
そのまま通り過ぎてしまうのが惜しいような気がして、
花桜折る少将

そなたと一緒に居られないのは、この桜花に誘われて旅立ってしまったからなのだ

――などど心中で口遊んでいるうちに、ここに昔の女の家があることを少将は思い出した。
すると、土塀の崩れた合間から白い衣の人影がちらりと見えた。邸は痛々しいほどに荒れはて、人の住んでいる気配もない。あちらこちらを覗いても怪しむ人もいない。
どうしたことかと思っていると、先ほどの白い人影が引き返してきたのが見えたので少将はこれを呼び止め尋ねることにした。

「昔ここに住んでいらっしゃったお方はまだおいでになるか。もしおいでになるのなら、その『山人』にご挨拶申し上げたいという男がいると取り次いでほしいのだが」
「そのお方はここにはもうおりません。いずこへか、人の聞かぬ処へおいでになったとか……」
「なんと。気の毒なことだ。尼にでもなられたのだろうか。これでもう、光遠(みつとお)にも手引きしてもらう必要もないということか」

と言いつつ情事の思い出を笑みに紛らわしていると、妻戸の開く音がした。
供の者たちを遠ざけて透垣(すいがい)の脇のすすきに隠れて覗いてみると、

「ねえ少納言の君、夜が明けたみたいよ。外に出てごらんなさいな」

大人でもなく、子供でもない女童(めのわらわ)であった。
着慣れた宿直(とのい)姿――蘇芳の衵(あこめ)の上に櫛の良く通った髪の先がなまめかしく揺れている。
月光の方へ扇を翳し「月と花とを」と口ずさんで満開の桜の方へ近づいてきたので、少将は歌でも詠んで声を掛けたかったが、年かさらしい女房の声が聞こえてきた。

「季光(すえみつ)はどうして起きてこないのかしら。――あら弁の君、そんなところにいたのね。早くこっちにいらっしゃい」
「留守番なんてつまらないわ」
弁の君と呼ばれた女童はむくれた様子で言った。
「そうだわ。それなら行くだけ一緒に行って、御社(みやしろ)には入らないで近くで待っていることにするわ」
「そう聞き分けのないことを言わないの。あなたは物忌みの最中でしょう」

そうこうしていると、身支度を整えた五、六人の者が邸から出てきた。
階段を気だるげに降りてくる女が少将の目を引いた。この邸の主だろう。良く見ると被衣(かずき)を肩にずらして羽織っていて、物言いはたどたどしく、その幼い様が妙に色っぽく見えた。
これは良い女を見つけた、と胸を躍らせているうちに辺りが白み夜が明ける気配がしたので、少将はその日はすぐに家へと帰ったのだった。

明くる日、日がすっかり高くなってから起き上がり、少将は夕べの女のもとへと文を書いた。
薄青の紙に『夜もあなたへの愛情もとても深かったのだが、私を突き放すようなあなたの機嫌だったので早々にあなたのもとを去りました。私の心がどんなに辛かったか、どうかお察しください』などと書き、歌をつけ、柳の枝に結び付けて女のもとへと送った。

――昔はあなたもこれほど冷たくはなかったのに。私の心は青柳の糸のように乱れております

――偶然のように私へ絡みついた青柳の糸のようなあなただから、うち解けたと思う間には他の女へ心乱れて

女からの返事は何の工夫もない、他愛のないものだった。

「昨夜はどこにお忍びだったのかな。昨夜の宮中の宴、君にもお呼びがかかったはずだが、姿が見えなかった」
「おや、昨夜はずっとここに居たはずなのに。変だな」
声のした方を少将が見ると、源中将(げんのちゅうじょう)と兵衛佐(ひょうえのすけ)が供の者に小弓を持たせて近寄ってくるところだった。
咲き乱れた桜の花びらが、吹雪のように舞い散っている。
そのさまに心を奪われた源中将が上の句をつむぐと、
「『見飽きる間もなく散る桜を 眺める心地はただ惜しく』」
「『わが身もすっかり弱ったものよ』」
すかさず兵衛佐が下の句をつぐ。少将はそんなやりとりと見て、
「おいおいそれはないだろう。
『散る花を惜しみ留めたとて 君なくば誰に見せよう 宿の桜を』」
などと言いつつ、三人は笑い合いながら邸を後にした。
友と戯れながらも、少将は今朝のあの桜の宿のことがどうしても忘れられなかった。

夕方、少将は父の邸に参上し、御簾を巻き上げて花霞に溶けこんだ暮れなずむ空を眺めていた。
その容貌は夕暮れの陽光を受けて光り輝き、花の美しさも色をうしなってしまうように思えるほどであった。琵琶を黄鐘調(おうしきちょう)に調律してのどやかにつま弾く指先の優雅さは、どんな美女でもこれほどではあるまい。

少将は管弦に通じた人たちを召してさまざまな曲を合奏して遊んだ。
その席で側近の光季(みつすえ)が仲間とこんな話をしている。
「流石は少将の君。あれではどんな女性でも惹きつけられずにはおれまい。
そういえば、陽明門のあたりに琵琶を上手に弾く姫君がいたなあ。琵琶だけでなく何事にも通じられていて、他の女性とは格が違う」
陽明門、という言葉が耳に引っかかった少将は光季に問い詰めた。
「なぜおまえがあの桜の宿のことを知っているのだ。私にも聞かせてくれ」
「いえ、それはその、ちょっとした縁がありまして」
「何か知っているな。詳しく話せ」
実は、光季はあの女童のもとへ通っていたのである。
「あのお方は亡くなられた源中納言の姫君で、まことに美しい方と聞いております。
姫君の伯父の大将殿が養女としてお迎えして、入内させるおつもりだそうで……」
「なんだと。では大将殿が姫君を引き取る前にこちらに迎えしまおう。
光季、どうにか取り計らってくれ」
「なぜそこまであの姫君にご執心を……まあ、どうにか考えてみます」

ある夕方、光季は恋人である、かの女童に相談した。
「大将殿は姫君の身辺にいつも気を張っていらっしゃいます。
文をお取次ぎするのさえ、お祖母さまが見張ってらっしゃるわ」

そのうちに大将がいよいよ姫君の入内が近づいて目出度いことだ、などと言うようになった。光季が女童を急かすので、若いがゆえの軽率さからだろうか、女童はつい「良き折りがあれば、すぐにお伝えします」と答えてしまったのだった。
けれども少将の文を姫君に取り次ぐことはしなかった。

「女童に手引きするよう言い含めておきました。今夜こそ、絶好の機会です」

ついに時が満ち、月が昇り切った夜更け頃、少将は光季の車で桜の宿へ向かった。
女童は周囲の慎重に様子を伺って、少将を姫君の部屋へと導き入れた。
ともし火が物の後ろに追いやられていて、母屋は光が届かず良く見えない。それでも少将は手探りでその小柄な体躯を掻き抱いて車に乗せ、大急ぎで車を走らせる。
「なに、これは何事なの?」
暗闇の中で困惑の色を帯びた鈴の音のような声が転がり、少将の腕に抱かれたその人は、その華奢な身体を小さくする。

やがて、少将が車を邸に寄せると、
「なんとまあ、あなたは誰ですか」
と、ひどくしわがれた声が問いかけたのだった。

――勘の良い方はもうお気付きだろう。
実は、姫君の身を案じた祖母が姫君のすぐ傍に寝ていたのであった。
もとより小柄な人で、老いてから尼になったので頭が寒く、衣をすっぽりと被っていたのだ。
……尼君のご器量は、この上なく素晴らしかったのだけれども。
さてはて、そののち、いかが。


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