» 蛇性の婬(7/8)「雨月物語-1768~1776年刊 著者:上田秋成 -」

雨月物語

雨月物語

怪談物語をおさめた短編小説集「雨月物語
死してなお残る「信念」「執着」と
いったものが描かれています。

蛇性の婬(7/8)「雨月物語-1768~1776年刊 著者:上田秋成 -」

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やがて日がたち三月になったころ、豊雄夫婦は金忠にこうすすめられました。

「都ほどじゃあないが、名高い吉野の春も素晴らしいものでね。三船山、菜摘川はいつ見ても飽きないところだが、今頃はどんなに楽しいことか… さぁ、仕度して。一緒に行こうじゃあないか。」

 真女児は一度やんわりと断りました。しかし、夫婦がなおも勧めたので、不本意だったようですが断りきれず、ふたりとともに行くことになりました。

 金忠夫婦らは吉野にあるとあるお寺とはかねてから親しくしていたので、まずはそちらへと訪れます。
 お寺の住職がこういって彼らを出迎えてくれました。

「今年の春は遅いおいででしたなぁ。花も半分は散ってしまって、うぐいすの声も少々乱れておりますが… なおよいところへご案内いたしましょう」

 その翌日のことです。

 明け方の空は霞がかっておりましたが、次第に晴れていくのを見渡すと、このお寺が高い場所にあることがわかりました。
 そしてまわりの僧坊をはっきりと見下ろすことができます。
 飛び交う鳥たちは何とはなしにいさえずり、木や草の花々が色とりどりに咲き誇っており、おなじ吉野の里山でありながらもその光景にはおもわず目が覚める思いがしました。

「はじめての参詣ならば、滝のあるあたりが見所でしょうね」

 案内を頼んで一行はそちらの方へと出かけて行きました。

 滝をめぐり、下っていくとむかし天皇が行幸なされたあたりでは、急流が岩角に激しくぶつかってはしぶきを上げ、小さな鮎などが水に逆らって泳いでおり、とても美しく興味がそそられるものがあります。
 一行は一面に弁当をひろげて、食事をとりながらこの景色を楽しんでおりました。

 そこへ、こちらへと向かってくる老人がおりました。

 その老人は、髪の毛は麻糸よりつないで束ねたかのように乱れてはいますが、手足は大変頑健そうにみえます。
 彼は滝の辺までやってきて、豊雄たち一行を不思議そうに見つめていましたが、真女児とまろやはその老人に背を向けて見ないふりをしています。
 すると、しげしげと真女児とまろやを見ていたその老人が呟きました。

「奇っ怪な。この邪神め、なぜ人を惑わす? わしの目の前で何をしている」

 とたんに真女児とあまろやは踊り上がって、滝に飛び込んだかとおもうと水が大空にまで湧き上がり、何も見えなくなってしまいました。

 そして、墨を零したかのような黒い雲が現れ、急に激しい雨が降ってきたではありませんか。
 人々はあわてふためきましたが、老人はそんな人々をなだめて人里まで下ります。

 家の軒先に身を入れて、そこで一息つきながら生きた心地のしないままでいる豊雄に向かって老人が口を開きました。

「そなたの顔をよく見ると… あの邪神に悩まされているようだな。あのままほうっておけば、ゆくゆくは命を落としていたことだろう。これからはよく用心されよ」

 豊雄は老人へひざまずいて頭を下げてことの一部始終を口にし、老人へと助けを求めます。すると老人は、「やはりそうだったか」と続けました。

「この邪神は年を経た大蛇であろう。

大蛇の性質とは、酒と色に心を奪われ、牛と交わっては鱗(リン;)を生んで、馬と交わっては竜馬(りゅうめ:)を生むのだといわれている。
この度そなたを惑わせたのは、結局そなたが美男で、それに邪神が惹かれて淫欲を欲したものであろう。
邪神は執念深い。よくよく用心しなければ、こんどこそ命を落とすことになるぞ」

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 これにはますます恐れ戸惑いながら、老人を尊んで拝みました。この人はもはや、生き神様なのではないか、とまで思いましたが老人はそれを笑って否定します。

「私は神ではないよ。大和の神社にお使えする当麻の酒人という者です。参りの道を教えて差し上げよう。さぁ、まいられよ」

 と、老人についていくことで彼らはみな帰ってきました。

 翌日、豊雄は大和の里へと趣いて、老人に感謝の品を渡しました。そして、自分を救って欲しいと懇願したのです。
 しかし老人はひとつも自分のものにはせず、神官たちにわけて豊雄を諭しました。

「仮の姿に惑わされでない。あの邪神はそなたの美しさに淫欲を募らせ、またそなたも大蛇の仮の姿に惑わされて、本来の力強さをなくしているのだ。
いますぐに勇気を古い、こころを静めるのなら、わしの力などなくとも邪神を追い払えるだろう」

 豊雄は夢から覚めたかの様な気持ちで、何度も何度も老人に礼をしながら田辺の家へと帰って行きました。
 戻ってきた豊雄は金忠夫婦に深く礼を述べて故郷・紀伊国の三輪崎へと帰っていきました。

 金忠にこう礼を述べて。

「ここしばらく、あの大蛇に惑わされていたのは私の心が弱かったからです。正しくなかったからです。
父や母、兄に孝行をすることもせず、あなた様のお宅へと厄介になっている理由もございません。

…今までお世話になり、大変ありがとうございました。いずれまたお伺いいたしますので、どうかお健やかに――」

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「蛇性の淫」登場人物

<豊雄>
とよお。主人公。仕事をしていない風流人で、父・竹助の計らいで自由に暮らしていた。
<真女児>
まなご。ヒロイン。ある雨の日に豊雄が出会った美しい女性。
<まろや>
真女児のお供をしている少女。
<金忠>
田辺の金忠(かねただ)。豊雄の姉が嫁いだ商人。

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