» 願立「平家物語-作者:藤原行長(異説有)-」

平家物語

平家物語

平家物語」は平家一門の栄華と
滅亡を描いた軍略期。平安末期の
貴族政治から武家政治への以降期に、
日本で起こった内乱が描かれています

願立「平家物語-作者:藤原行長(異説有)-」

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 比叡山に着くと、神輿を客人の宮へお通しした。客人の宮とは、白山妙理権現のことで、白山中宮とは父子の関係であたる。この訴訟の勝敗はわからないが、生前親子であった二柱が対面できたのは喜ばしかった。浦島太郎の子が七世の子孫に会えたことや、胎内にいた羅睺羅が霊鷲山にいる父・釈迦を見たときにも勝るものであった。三千の衆徒が集結し、七社の神官が袖を連ね、次々と読経・祈念する光景は、言葉にできないほどであった。

 延暦寺の大衆は、国司加賀守・藤原師高を流罪に処し、目代・近藤判官師経を投獄するよう朝廷に奏上した。しかし判決がないので、それなりの地位にある公卿や殿上人は「ああ早く判決を下すべきであるのに。昔から延暦寺の訴訟は特別で、さしもの大蔵卿・藤原為房や太宰権帥・藤原季仲は朝廷の重臣であったけれど、延暦寺の訴えによって流罪になった。ましてや師高など物の数ではなく、詳細を検討するまでもないというのに」と言い合った。しかし、大臣は俸禄を重んじて諫言せず、小臣は罪に問われるのを恐れて口を開かない。そういうことなので、みな口を閉ざしてしまった。

「賀茂川の水、双六の賽、延暦寺の僧、この三つだけが我が意のままにならない」と白河院も仰せられたという。鳥羽上皇の時代も、越前の平泉寺を延暦寺に属させたのは、朝廷の帰依が深かったからである。「無理をもって道理とする」と院宣を下された。「衆徒が神輿を陣頭にして訴え申すような場合には、帝はいかが計らいますか」太宰権帥・大江匡房が奏聞すると、白河院は「まことに延暦寺の訴訟は捨て置けぬ」と仰せになった。

 去る嘉保2年3月2日、美濃守・源義綱朝臣は当国に新設された荘園を廃止する際、比叡山に長く住む円応という僧を殺害した。これにより日吉神社の神官、延暦寺の寺官、総勢三十余人が訴状を捧げて陣頭へ来たのを、後二条関白・藤原師通は大和源氏の中務権少輔・源頼春に命じて防がせた。頼春の郎等は矢を放ち、その場で8人が射殺、十余人は負傷し、神官・寺官はみな四方へ逃げ散った。延暦寺の高僧たちが詳細を奏聞しに山を下るということだったので、武士や検非違使たちは西坂本に馳せ向かい、衆徒を全て追い返した。

 判決がなかなか下らないため、延暦寺では、日吉七社の神輿を根本中堂に移し、その御前で大般若経を七日間読経し、後二条関白・藤原師通を呪咀した。最終日の導師には仲胤法印(当時はまだ仲胤供奉)が高座に上り、鐘を打ち鳴らし「我らが幼いときより育ててくださった神々よ、どうか後二条関白に一矢を報い給え。大八王子権現」と高らかに祈誓した。

 その夜すぐに、不思議な事が起きた。八王子権現の御殿から鏑矢の音がし、宮中を目指して鳴り飛ぶ様子を、人々は夢に見た。その朝、関白師通の御所の格子を上げてみると、おそろしいことに、たったいま山から採ってきたかのごとく露に濡れたシキミの枝が一本立っていたのである。

 延暦寺の咎めということで、その夜から関白師通は重い病に罹った。母君(藤原師実の北の政所)はひどく嘆き、身をやつして卑しく身分の低いものの真似をし、日吉神社に詣で、七日七晩祈られた。そのときにしたお祈りとして知られているのは、芝田楽を百番、祭礼装束で舞う作り物を百番、競べ馬・流鏑馬・相撲を百番、百座の仁王講、百座の薬師講、一尺二寸の薬師を百体、等身大の薬師を一体、そして釈尊と阿弥陀像をそれぞれ造立供養した。心の中には3つの願いを持っておられた が、心に秘めたことなので他人は知る由もない。

 だが7日め最後の夜、不思議な事が起こる。八王子の御社にたくさんいた参籠の人々の中で、陸奥からはるばる上洛してきた童巫女がいたのだが、真夜中、突然に意識を失ってしまった。遠くへ担ぎ出して祈ると、ほどなく息を吹き返し、すぐに立ち上がって舞を始めた。人々は奇妙に思いそれを見る。半時ほど舞った後、童巫女に日吉山王権現が乗り移り、さまざまな信託があった。これがじつに恐ろしいものであった。

「皆の者、心して聞け。藤原師実の北の政所が7日間、我が前に参籠した。願いは3つ。1つめは、関白師通の命を助けること。それが叶うなら、大宮の下殿にいるさまざまな片端者にまじって、千日間、朝夕宮仕えをするそうだ。師実の北の政所として世間の苦労と無縁で過ごした者が、子を思う気持ちに駆られ、息が詰まる思いも忘れ賤しい片端者たちにまざり、千日の間、朝夕宮仕えするというのはまこと愛情深いことと思う。2つめは、大宮の橋殿から八王子権現の御社まで回廊を作るそうだ。三千人の大衆が雨でも晴でにも社へ詣るとき気の毒だと思っていたから、回廊が造られたらどれほど結構なことか。3つめは、師通の命が助かるのであれば、八王子権現の御社で法華問答講を毎日休みなく行わせるそうだ。この願かけはいずれも並大抵のことではない。まあ先の二つはなければなくてもよい 、法華問答講はぜひとも催してもらいたい。だがこの度の訴訟は、さしたることでもないのに裁きがなく、神官・宮仕が射殺され、多くの衆徒が負傷し泣く泣く訴えてきたのがつらく、それがいつまでも忘れられない。さらに、彼らに当たった矢は、そのまま仏が姿を変えた御神体に当たったのだ。嘘かどうかはこれを見るがいい」そういって肩を脱ぐと、左脇腹に大きな盃の口ほどに肉がえぐられていた。

「これがあまりにつらく、どれほど願をかけられても天寿を全うさせることはできない。法華問答講をきちんと行うつもりならば、命を3年伸ばそう。それを不足と思うのなら致し方ない」そういって、日吉山王権現は天に昇っていった。

願立「平家物語」

 後二条関白の母君はこの願かけを誰にも語らなかったのに、誰が洩らしたのかとは少しも疑わなかった。心に秘めていたことそのままのお告げがあったので、ますます心に染みて尊く思われ「たとえ一日片時であってもありがたく思っておりすのに、まして3年も命を延ばしてくださると仰せられたこと、本当に感謝しております」と涙を抑えながら下山した。その後、関白師通の領地である紀伊国の田中庄というところを、八王子権現に寄進した。それ以来、いままで八王子権現の御社で法華問答講は毎日欠かすことなく行われているとのことである。

 そうこうするうち、後二条関白・藤原師通の病状は軽くなり、もとどおりになった。みなが喜び合っている間に3年は夢のように過ぎ去り、永長2年になった。6月21日、関白師通殿は髪の生え際に悪性の腫瘍ができて床に臥し、同月27日、御年38歳で亡くなった。勇猛で、理性が強く、実に立派な人物だったが、急な事態だったので、命を惜しまれたのだった。惜しくも40へ届かぬうちに師実より先に亡くなったのは悲しいことである。必ず父が先立つべきということはないが、生死の定めに従うのが世の習いであり、あらゆる徳を備えた釈尊、菩薩修行の十地を究めた菩薩たちですら力の及ばないものである。慈悲深い日吉山王権現は人々に益をもたらしてくれるが、時に人々を咎めることもある。

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「願立」登場人物

<藤原師高>
加賀守師高。師経の兄。比叡山の末寺白山涌泉寺と紛争を起こす。

<藤原師経>
近藤判官師経。師高の弟。比叡山の末寺白山涌泉寺と紛争を起こす。

<白河院>
第72代天皇。上位した後もその後も上皇として政務をとり、院政を開始した人物。

<藤原師通>
後二条関白。悪瘡を患い38歳で急死。

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