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中世の物語

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平安時代の雅から一変武士の社会へと
変わった時代。妖怪のお話や武士や
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餅をつかぬ里「和歌山県民話」

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むかしむかし、鎌倉に幕府が敷かれいた頃のお話です。
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒幕する計画をお立てになりました。

しかし、その計画は事前に漏れてしまい後醍醐天皇の長男である大塔宮護良親王(だいとうのみもりながしんのう)も追われる身となりました。
護良親王は僅かな家臣を伴い熊野に逃れる事になりました。

年が変わり元弘二年のお正月。
昨年から降り続く雪で野山はすっかり真っ白になっていました。

猟師の右左右衛門は大晦日についた一斗五升の餅で三日間雑煮を作り、四、五日も経つとに餅は残り少なくなってしまった。
そのうちに七日が経った正午の事でした。ザクザクと雪を掻き分けて2人の山伏がやって来た。

二人の山伏のうち若い山伏が右左右衛門に尋ねた。
「ここは右左右衛門宅でござるか?」
右左右衛門は「ヘイ」と答えた。

「別に用はないが、お前は弓矢に秀でている聞いたのでな」といいながら、床の間に飾ってある弓矢をながめた。
「万一のことがあれば、戦に出るのだろうのう」

右左右衛門は、年の暮れに聞いた鹿買いの噂を思い出していた。
その噂は鎌倉の者が猟師をかり集めて、大塔山にしのんでおられる護良親王を討てというものでした。

この山伏がきっと鎌倉の使者だと思った右左右衛門は山伏たちにこう言いました。
「戦など行きやしません。猪や鹿は撃ちますが、戦の話など聞くだけで身が縮みます。そんな話は止めてください」
餅つかぬ里挿絵

それを聞いた山伏たちはどこか安心したように言いました
「そうか、ならば恐れ入るが茶を一杯くださらぬか?」
鎌倉の使者を良く思わない右左右衛門は
「あいにくおいて、ござらん」
っと突っぱねた

すると山伏たちは食事を恵んでくれと頼むが右左右衛門はそれも突っぱねた。

それでも山伏たちは
「正月の餅でもいいから恵んでくれ」
っと言いますが

「みな食べてしもうて一つもござらぬ」
と右左右衛門は嘘をついた。

「仕方がない。では、お邪魔申した」
っと山伏一行は右左右衛門の元を去っていった。

それから半日ほど過ぎ今度は弓を持った武士の一団がやってきました。

武士の一人が右左右衛門に訪ねます。
「先ほど、山伏がこの辺を通らなかったか?」

「通りました。もう半日も前の事なので四、五里ほど先に行ってしまったでしょう」
そう答えると右左右衛門ははっとします。

その武士はなんと年の暮れに現れた鹿買いだったのです。
武士は右左右衛門に言います。
「あの山伏は護良親王が変装し逃げていたものだ。我らは親王を追って来たのだ」
そう言うと武士は駆け去ってしまった。

「待って下されッ!」
右左衛門は、裸足のままで表へ飛び出し、雪の上にペタンと坐った。

自分が追い返した山伏が鎌倉の使者ではなく護良親王であったと知り右左衛門はいたたまれなくなった。
「お許し下さい。親王様とも知らず、餅はないなどとうそをつきました。」

そう言うと右左衛門は狂ったように残った餅を川に捨てて言いました。
「お許し下さい。子々孫々まで、決して餅をつきません。」
そして、弓をとって武士の後を追って行きました。

それからこの村では正月になっても餅をつかなくなってしまいました。

そんな風習が続き600年以上過ぎて時代は昭和に入っていました。
護良親王600年祭の大法要が営まれた時にこの村の代表が粟餅を持参し、お供えしてお詫びを申し上げたました。
それ以降はこの村でも餅がつかれるようになったそうです。


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